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2014/01/17

鳥の歌 (パブロ・カザルス、チェロ演奏家・教育者・平和活動家)

原題 : El canto dels ocells
Advantage : 情熱/ヒトの品格/人間力
Key : 本/男性/海外/音楽家/国連平和賞/チェロ 

Info :

パブロ・カザルス 鳥の歌

 スペイン・カタルーニャ地域で最も敬愛されている英雄、パブロ・カザルス。
(スペイン語:Pablo Casals、カタルーニャ語:Pau Casals、1876年12月29日 - 1973年10月22日)
近代チェロ奏法を確立し、深い精神性を感じさせるチェロの音は、20世紀の音楽界に大きな影響を与えました。また、教育者、指揮者としても活躍し、音楽を通じて、世界平和活動に生涯を捧げたことでも知られています。

 これは、カザルスの人間性、勇気を象徴するような言葉を集めた“カザルス語録”です。
今も多くの音楽家、スペイン国民、とりわけカタルーニャ人に愛され、カザルスの心が語り継がれている理由が、改めてこの本を読み返して解った気がします。
特に音楽に詳しいわけでもない私が、学生時代に初めてカザルスの伝記を読んだ時と同じように、カザルスの熱が、人々の胸を熱くするからだと思います。

 この本のタイトル「鳥の歌」は、世界を感動させたカザルスの伝説的エピソードです。
日本での知名度はあまり高くないように感じていたので、もっと多くの人に知ってもらえたらと思い、今回紹介させていただきます。


<鳥の歌>の伝説

1971年10月24日(95歳直前)
ニューヨーク国連本部にて演奏会、国連平和賞が授与された日。

「これから短いカタルーニャの民謡<鳥の歌>を弾きます。
私の故郷のカタルーニャでは、鳥たちは平和(ピース)、平和(ピース)、平和(ピース)!と鳴きながら飛んでいるのです」
彼は右手を高く上げて、鳥が飛ぶように動かしながら、ピース、ピース!とくり返した。

カザルスの<鳥の歌>は元々、キリストの誕生を鳥たちが祝ってうたうという、カタルーニャ地方(バルセロナ地域)のクリスマスキャロルで、カタルーニャの魂ともいえる歌です。

 その背景は、スペイン国内でフランコ率いるファシズム独裁政権に反対し、1939年以降の長い亡命生活に発します。自由な思想、芸術を弾圧し、カタルーニャ文化と言語は禁止されます。
「スペインは私の国です。放棄するのは私でなく、フランコだ。」と言って、スペイン国籍を保持し続け、2年後の1973年にプエルトリコで亡くなるまで二度と帰ることができなかった故郷への思慕、愛国心が込められています。
ちなみに、フランコが亡くなったのは更に2年後の1975年、その後にボルボーン王朝が復活し、民主主義がよみがえりました。
 更に、第二次世界大戦終結後の世界情勢により、各国政府がフランコ政権を容認したことに抗議し、1945年以降の公式な演奏活動を長い間停止していた事情もありました。特に、フランコ政権を支持し、親密な関係を築こうとしていたアメリカ政府への反発は強いものでした。

それだけに、この日の<鳥の歌>は、カザルスの平和への願いによって実現した奇跡の演奏で、多くの人が涙したといいます。奇しくも、これが生涯最後の公式な演奏ともなってしまいました。


<カザルスの言葉>

「人間の尊厳にたいする侮辱は私にたいする侮辱だ。
そして不正に抗議することは良心の問題だ。
芸術家にとって、人間の権利はほかの人びとにとってよりも重要ではないだろうか?
芸術家だからといって人間としての義務が免除されるものだろうか?
それどころか、芸術家の責任はより重い。
なぜなら彼は特別な感受性と知覚を授けられているのだから。
そして彼の声はほかの人びとの声が聞かれないときにもひょっとしたら聞かれるかもしれないのだから。・・・・・」


<教育の重要性、ピカソについて思うこと>

 1937-39年のスペイン内戦中、合計で100万人ともいわれるスペイン人が自由を求めて亡命、戦火を逃れて海外に流出しました。その内の50万人は、1939年にカタルーニャから国境の近いフランスへ難民となって逃れていった同胞でした。
著名な音楽家カザルスもピレネー山脈を超えたフランス側のプラードという町で隠遁生活を送っていましたが、彼を慕う音楽家たちに説得されて、音楽の教育に目覚め、力を注いでいきます。そして毎年プラード音楽祭を開催するまで活動は大きくなりました。
現在もカザルスへのオマージュとして、カザルスの心を継承する同志により、プラード・カザルス音楽祭が開催されています。数年前にはフジコ・へミングさんも参加されていました。
 1955年からは、母と妻の出身地プエルト・リコに居を移し、死ぬまで音楽教育に力を注ぎます。57年から、そこでもカザルス音楽祭が定期的に開催されています。

 ところで、1939年当時、フランスに逃れてきた同胞達はどのような運命をたどったのか?
このスペイン内戦が引き金となって第二次世界大戦が勃発したわけですが、難民キャンプで苦しい生活を強いられ、そのまま、多くが強制収容所に収監され、死んでいきました。
カザルスは亡命者の救済に力を尽くしますが、何十万もの同胞を助けることができずに、悲劇を見ていることしかできなかった歴史があります。
その心境を思うと、<鳥の歌>の意味が一層重く、その音が深く響いてきます。

 「ゲルニカ」が代表作に挙げられるピカソも、同世代を生きた反フランコの芸術家といわれています。
しかし、カザルスの資料によると、あまり友好的な同志とは見ていなかった様子が感じられます。
私も個人的には、「ゲルニカ」がフランコへの明白な抗議のために描かれたかどうか、微妙だと思っています。1936年にフランコがクーデターを起こした時、スペイン国内の名だたる政治家、学識者、芸術家の多くが、直ぐに抗議の意思を表明しました。当時、フランスで生活していたピカソは意思を表明することも、自国の危機のために行動をおこすこともしませんでした。国際的にも影響力を持つ芸術家であったのに、、、、その態度は周りを苛立たせ、生来のボヘミアン気質や女性遍歴も相まって、頑固で一直線な気質のカザルスが、ピカソを軽蔑したであろうと推測されます。
そして37年にゲルニカが大空襲を受けると、その数日後に急にこの絵の制作を始めます。フランコとファシズムに対する怒りというより、空爆の悲惨さにショックを受けた、戦争の表現だという見解があります。反フランコの作品だとピカソ本人が公言しだしたのは第二次世界大戦終結後、世間には反フランコの代表作品だと勝手に賞賛され、自分の立場も安全になってからという状況、真実ならばズルイ気がします。
事実は、ピカソの本意は、解らないけれど、ピカソは第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、積極的に関わっていません。
これは平和主義者として選択した行動、戦争と政治に芸術は屈しないから関わらないという意思表明なのか?
 とにかく、芸術家カザルスとは逆の手段、行動を採ったことは間違いない?と考えながら、ゲルニカを眺めてしまいます。

関連Info : CD                 

  カザルスとの対話(新装版)

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